ニカラグア運河年表 Chronology of Nicaragua Canal Constuction Back to: Main Home Page>ニカラグア運河 |
・ 1914年には、アメリカ合衆国はそれまで渇望されていたパナマでの両大洋間運河建設を決定していたにも関わらず、
ニカラグア政府との間で「チャモロ−ブライン協定」(el Tratado Chamorro-Bryan)に調印した。
この条約は、ニカラグア内に運河を建設する権利を米国に対して永久に付与するものであり、運河建設のあかつきには
100年間の事業経営権(concesio'n)を米国に譲渡するものであった。その条約は1916年に批准され、1970年7月に破棄された。
・ 世界の工業および商業的発展にともなって、造船工業はその発展への圧力がかけられてきたが、また港湾機能の向上への
圧力もかけられてきたといえる。例えば、貨物の荷揚げ・荷降ろし、倉庫入れ・保管(almacenamiento)のための施設
などの改善、アクセス水路の大水深化(profundizacio'n de los canales de acceso)などが求められて来た。
・ 近年(1975年から2005年当りまで)の過去30年間においては、人口や生産量の増加にともない、また市場や取引のグローバル化にともない、世界の海上
輸送量は実質的な増加を示している。このため積載量やサイズがパナマックス船(los buques Panamax)よりも大きな
船舶の建造のような、より効率的で経済的な海上輸送手段の必要性が高まっている。
ヨーロッパからアジアへのより短い海上ルートの探求が1492年にクリストバル・コロンの航海によってなされた。
すなわち、1492年カスティーヤとアラゴン王国が遠征を組織し、商業目的をもって大西洋を西に向けてそのルート
探求に乗り出す。コロンはこれらの試みによってアメリカ大陸を「発見」した。
1513年、バスコ・ニュネス・デ・バルボア(Vasco Nun~ez de Balboa)がパナマ地峡(el Istmo de Panama')を横断し、
太平洋を遠くに確認し(divisar)、その発見を国王・カルロス5世(el rey Carlos V)に報告した。その中で、バルボアは
運河を建設して両大洋間をつなげる可能性を示唆した。
スペインの国王はその提案に興味を示し、可能な運河ルートを提出するように命令した。国王は、遥か遠い東洋との
交易をより良くすることができるという考えをいつも持っていた。
しかし、バルボアは結局のところいかなる偉業をもってしてもその実現は不可能であろうという結論にいたり、
その事業提案は断念された。
カルロス5世の後継者であるフェリップ2世(Felipe II)は、1567年にニカラグアにおける運河ルートを特定するための
技術者チームを送った。しかし、パナマにおけるルートと同様に、そららの報告ではその運河実現は難しい
と結論付けられた。
フランス人が[運河建設の]申し出。
カディス裁判所(los Cortes de C
中央アメリカ連邦議会(Congreso Federal Centroamericano)の議会令により、ニカラグアでの両大洋間運河開削の準備が
進められた。
[注]中央アメリカ連邦、中米連邦: 1811−1838年、中米諸国グアテマラ、ホンジュラス、エルサルバドル、ニカラグア、
コスタリカ
の5か国でつくられた。
アメリカ合衆国(以下「米国」)が中央アメリカ(中米)内のいずれかの地域に運河を建設したいという意向を表明した。
オランダ人たちによる運河に関する事業・運営管理権(una concesio'n canalera)の取得、すぐ後に放棄した。
中米連邦の解散。ニカラグアは運河建設のための支援をヨーロッパに求めた。それに興味を示したフランスの将来の皇帝が
ロンドンにて「ナポレオン・ニカラグア運河」(La canale Napoleone de Nicaragua)という名前の人目を引く会社を
つくった。
1838年から1842年までの間に、中央アメリカ連邦(la Federacio'n Centroamericana)大統領の命によりはじめての部分的な
踏査がなされたが、その責任者はイギリス技術者のジョン・バイリー(John Baily)であった。
ルイ・ナポレオン3世皇帝(emperador Luis Napoleon III)は、パナマ運河案再来の60年前に当たる1844年に
彼の回顧録の中で、「運河をもって大西洋と太平洋とをつなぐという計画に対して初めから非常に
興味を抱いた。そして、この工事を行うのに最善なルートはニカラグアであるという結論に至った」と語っており、
その時からニカラグアの地理的重要性が明らかにされてきた。
アメリカ合衆国とコロンビアとの間の「新グラナダ条約」(Tratado de Nueva Granada)。それによって、パナマ地峡
(el Istmo de Panama')における通行の権利(el derecho de vi'a o transito)を米国に付与した。
この条約の成果として、1850年〜1855年の間にパナマ地峡での大陸横断鉄道(el ferrocarril transcontinental)が建設
された。
バンダービルト(Carnelius vanderbilt)の会社に有利なニカラグアの運河に関する事業・運営管理権
(concesio'n)の譲渡。
アメリカ合衆国とイギリスとの間の条約「クレイトン−バウラー条約」(Tratado de Clayton-Bowler)。両国のいずれの国も
他方と合意することなく通航可能な運河に関するいかなる排他的な権利を取得することをなさず、また維持しないことを
約束する。
1850年から1852年までの間に、トランジット会社(la Compan〜i'a del Tra'nsito)の要請により、Childs大佐(Colonel O. M.
Childs)がニカラグア内を通過する運河ルートを特定するためのはじめての完全な調査を実施した。
米国上院は5つの運河ルート(cinco rutas canaleras)に関する評価報告書を受け取った。5そのルートとは、テウアンテペ
(Tehuantepe)、ホンジュラス、ニカラグア、パナマ、ダリエン(Darie'n)。
アメリカ合衆国とニカラグアとの間の「ディキンソン−アヨン条約」(Tratado Dickinson-Ayo'n)。この条約において、
建設されるであろういかなる運河についてもその中立化が謳われている。
1872年に、アメリカ合衆国政府は、Childs大佐によって推奨されたルートを検証するため、Lull司令官を指揮者とする調査
グループを組織した。
フェルディナンド・デ・レセップス(Ferdinand de Lesseps)が統括するフランスの会社へのコロンビアからの運河に関する
事業・運営管理権(concesio'n)の譲渡。
アメリカ合衆国・Hayes大統領からの上院へのメッセージ:「この国の政策としては、米国の管理下での運河でなければ
ならない。
米国はヨーロッパ列強のいずれの諸国に対してもこの運河を譲り渡すようなことは一切容認しない。
たとえ条約が存在するとしても、あるいは他の諸国の権利がこの政策に干渉するとしても、公正で自由な交渉をもって
米国の政策を促進し確立すべく適切な措置が執られなければならない」。
ニカラグア政府から両大洋間運河代理(la Provisional de Canal Interocea'nico)への運河に関する事業・運営管理権
(concesio'n)の譲渡。
アメリカ合衆国とニカラグアとの間の「ザバラ−フレリングウイセン条約」(Tratado Zavala-Frelinghuysen)。
アメリカの諸会社による運河建設、およびニカラグアとの共同所有の権利を認めることを取り決めている。
その建設・所有権には、現在「海洋運河会社」(Maritime Canal Company)というメノカル(Menocal)の事業・運営
管理権(concesio'n)が組み込まれている。
1885年に、A・G・メノカル(Menocal)は、常にアメリカ合衆国政府の指導下において、Childs大佐が推奨したルートについての
部分的な再評価を行った。
運河建設工事が開始された。数ヶ月度、メノカル(Menocal)が統括する技術者たちが、蒸気クレーンで(con gru'as a vapor)で
桟橋を建設し、入り江を浚渫し、マチュカ(Machuca)の急流(raudales)の区間を整備した。また、1600人の労働者を雇って、
運河建設予定地と平行して11kmにおよぶ鉄道(vi'a ferrea)を建設し、サン・ファン・デル・ノルテとエル・
カスティーヨ間の電信電話線をも敷設した。しかし、運河会社が経済危機に陥ったために必要な資金が続かず、
この試みは見捨てられ終わってしまった。
1889年から1901年にかけて、アメリカ合衆国海兵隊(la Marina)の退役提督のジョン・G・ウォーカー(John G. Walker)を
委員長とする「地峡運河委員会」(la Comisio'n del Canal Istmico )はアメリカ政府から調査に関する任務を引き受けた。
その調査とは、ニカラグア・ルートとパナマ・ルートのいずれがより実際的であり、実現可能性があるかを明確にするための
ものであった。
それと同時に、建設コストを見積もって経済性の比較を行い、またいかなる条約が必要とされるかを確定することが要請
された。
この委員会は、パナマ・ルートを選択する上で大変重要な役割を果たすことになった。
1890年に、トランジット会社(la Compan〜i'a del Tra'nsito)は過去における諸々の調査の結果を掘り下げた。
その結果としてニカラグア運河計画をもたらすことにつながった。
1893年セラヤ大統領(自由党)就任。政権末期、中米近隣諸国5国間で「平和友好一般条約」を締結・紛争終結後、新規
事業として運河建設を試みたが、その支援をアメリカ合衆国でなく英国、ドイツなどに求めた。米国にとってはその大陸領土の
東西を自由に回航できる運河がパナマ運河(米国は1904年から運河工事を引き継ぎ1914年に完成させた)の他に開通し、
かつ潜在敵国に支配された場合には国防上大きな脅威となる。1909年ブルーフィールズ(Bluefields)で蜂起した保守党
反乱軍に対し外国人保護を理由に海兵隊を派遣した。同年セラヤ大統領は辞任した。
「サチェス-フェリー条約」(Tratado Sa'nchez-Ferry)にて、アメリカ合衆国はニカラグアから運河の建設および運営の永久
賃借権を取得した。
「地峡運河委員会」(Istmian Canal Comisio'n)は、新しい報告書と経済的研究をもってパナマ・ルート案を推薦した。
マルティニク島(西インド諸島東部)でのペレ火山(volca'n Mont. Pele' en Martinico)の噴火とその被災(死亡者40,000人)
が意図的宣伝活動に利用され、その結果上院議員によるパナマ・ルート案の選択を決定付けるに至った。
「チャモロ−ブライアン協定」をもって、アメリカ合衆国はニカラグアから300万ドルで運河の開削権を買い上げた。
これは将来ニカラグアに運河を開削する場合米国が独占して事業に当たることができる権利を認めたもの。
ニカラグア財政の建て直しが意図されたものであるが、米国による以外に「ニカラグアに運河を作らせない」という
政治的意図が含まれていた。1914年にパナマ運河が開通なか、ニカラグアに運河は必要なかった。将来ニカラグア運河が開通し
他国によって支配されれば国家安全保障上の脅威となる恐れがあった。ニカラグアにとっては恩恵をもたらす可能性のある
運河建設の夢は断たれた(あるいは、遙か彼方に遠のいた)。
1929年に、アメリカ合衆国議会はニカラグア運河ルートについての新しい調査を承認した。その責任者となったのは
アメリカ合衆国陸軍工兵隊(el Cuerpo de Ingenieros del Eje'rcito)のダニエル・I・スルタン中佐(Teniente Coronel
Daniel I. Sultan)であり、その調査目的はニカラグア運河の実現可能性について、またその建設や維持管理に必要と見込まれる
経費を確認することであった。
1931年に、この調査が終わったが、ニカラグアでの閘門式運河建設(construir un canal de esclusas por Nicaragua)は
実現可能であり、またその設計についても何の問題もないと結論付けられた。
1939年から1940年にかけて、アメリカ合衆国陸軍工兵隊は、艀(はしけ)のための6から12フィート(約1.8−3.6m)の
運河建設のための調査を行ったが、何の着手もなされなかった。
1947年には、パナマ運河の総裁は、1960年から1975年の間に起こるだろうと見込まれる通航量の増加によるパナマ運河の
容量不足に備えて今後なすべきことを明確にするための評価を行った。そして、1970年代の初めにはパナマ運河の
年間通航量は飽和状態に達した。
1999年に、ニカラグアにおける両大洋間にまたがる水の運河(un canal interocea'nico acua'tico por Nicaragua)の建設と
オペレーションの実現可能性について明らかにするための一つの事前調査を行うことを目的として、ニカラグア共和国
政府は「両大洋間大運河のための作業委員会」(la Comisio'n de Trabajo para el Gran Canal Interocea'nico)が
設立された。
なお、2002年および2006年に、当時の政府によって、同委員会は刷新され再組織化された。
2006年8月付けで、ニカラグア政府の「両大洋間大運河のための作業委員会」は、「ニカラグア両大洋間大運河計画概要書」
(Perfil del Proyecto de Gran Canal Inerocea'nico por Nicaragua, Agosto 2006)を作成・公表した。それは、同委員会の
の作業結果を要約的に取りまとめているものである。そこには運河計画をすぐ次のステージへと引き続き押し進めるに
足りうる十分なベースが構築されている、というのが概要書の大筋の結論である。
同概要書では6つの運河ルートが比較検討されているが、その最有望ルートとして大西洋側からククラ川−マホガニー・クリーク上流部−
ラマ川−オヤテ川−ニカラグア湖−リバス地峡(ラス・ラハス川−エル・グランデ川(エル・ブリット川))を経て
太平洋へ通じる両洋間通航路を挙げている。また、運河建設の技術・工学・環境・財政などの観点からさまざまな予備的
考察が展開されている。
この船舶の新世代はポスト・パナマックスとして知られ、それらの船舶はより大規模な運河を求めており、その大部分は
100,000トンから250,000トン級である。
この大きさ以上の船ともなれば、航海上の問題みならず、操船能力(maniobrabilidad)や港湾対応能力上の大きな問題
を抱えてしまうことになる。
海上輸送会社は、海上貨物輸送市場での競争力を向上させるために、船の長期航海における(en la travesi'as de sus
buques)経費を削減する必要性がある。これすなわち、信頼性があって効率的な両大洋間通航路が必要とされている所以である。
また、彼らの船の積載量や時間面での向上を目的として、航海時間の短縮化につながる両大洋間通航路が必要とされている
所以でもある。
・ Materiales exhibidos en el museo de El Castillo, Nicaragua, por ejemplo, el Cronologi'a de los Proyectos
Canaleros en Nicaragua (marzo, 2009) エル・カスティージョ要塞の中の博物館内展示 「ニカラグアにおける運河
プロジェクトの年表」.
・ 「小さな国の過酷な運命 〜ニカラグア〜」
・ 「ニカラグア年表」
下記以降は作成中 Sorry. Under Construction
Antecedentes いきさつ
"1. La busqueda de una ruta mas corta de Europa hacia el Asia se materializa con el viaje de Cristobal Colon
en 1492, cuando los reinos de Castilla y Aragon organizan una expedicion, lanzandose en su busqueda en
direccion Oeste sobre el oceano Atlantico, con objetivos comerciales. En este intento Colon descubre el
continente Americano."
ヨーロッパからアジアへのより短いルートの捜索は1492年にクリストバル・コロンの公開に
よって実現された。カスティーヤとアラゴン億国の時期に遠征が行われ、大西洋上の西行探検が出発した。商売の目的を
もって。この試みにより、コロンがアメリカ大陸を発見した。
"2. En 1513, Vasco Nunez de Balboa, tras cruzar el Istmo de Panama y divisar el oceano Pacifico, informa al
rey Carlos V de su descubrimiento, sugiriendole la posibilidad de conectar ambos oceanos a traves de un canal.
El rey de Espana, interesado en la idea propuesta, ordeno que se hicieran los levantamientos de una posible ruta,
siempre con la idea de poder organizar mejor su comercio con el lejano Oriente. Sin embargo, al final del
reconocimiento y levantamiento de la ruta, Balboa llego a la conclusion de que seria imposible para cualquiera
ejecutar tal hazana y se desistio de la idea del proyecto. Felipe II, sucesor de Carlos V, envio una cuadrilla
de ingenieros a localizar la ruta por Nicaragua en 1567, pero al igual que por Panama, los informes concluyeron
que seria una hazana dificil de lograr."
"1513年、バスコ・ニュネス・デ・バルボアがパナマ地峡を横断し、
太平洋を遠くに確認し、その発見をカルロス5世に報告した。運河を建設して両大洋間をつなげる可能性を示唆した。
スペインの国王はその提案に興味を示し、可能なルートを提出するように命令した。国王は、常にはるか遠い東洋への商売
をよりよくしたいという考えを持っていた。
しかし、結局ルートの調査と立上げは、いかなる偉業をもってしても不可能
だろうという結論にバルボアはいたり、その事業は断念された。カルロス5世の後継者である、フェリップ2世は、1567ねん
にニカラグア内でルートを選定するように技術者集団を送った。しかし、パナマと同様、その報告は運河実現は難しいと
結論付けられた。"
...............................................................................................
"3. El emperador Luis Napoleon III, 60 anos antes de que resurgiera la idea del canal por Panama, narra en
sus memorias, en 1844, lo siguiente: “me interese mucho por primera vez en el Proyecto de unir los Oceanos
Atlantico y Pacifico mediante un canal, y llegue a la conclusion de que la mejor via para realizar esta
obra es por Nicaragua”. Desde entonces queda evidenciada la la importancia geografica de este pais."
ルイ・ナポレオン3世皇帝(emperador Luis Napoleon III)は、パナマ運河案再来の60年前にあたる1844年に
彼の回顧録の中で次のように語った。すなわち、「運河を通じて大西洋と太平洋とをつなぐという計画に初めから非常に
興味を抱いた。そして、この工事を行うのに最善なルートはニカラグアであるという結論に至った」。その時からニカラグアの
地理的重要性が明らかにされてきた。
"4. El proyecto de construir un canal por Nicaragua, presenta en cierto modo un desarrollo gradual de
sucesivas investigaciones realizadas durante mas de siglo y medio, con el siguiente calendario:"
ニカラグア運河建設計画は、次のような経緯をたどりながら、一世紀半以上もの間になされた相次ぐ調査によって段階的にもせよ
確実に進展してきた。
"? El primer reconocimiento parcial, ordenado por el Presidente de la Federacion Centroamericana, estuvo a
cargo del ingeniero ingles John Baily, en 1838-1842."
1838年から1842年までの間に、中央アメリカ連邦(la Federacio'n Centroamericana)大統領の命により最初の部分的な踏査が
なされたが、その責任者はイギリス技術者のジョン・バイリー(John Baily)であった。
"? La primera investigacion completa para localizar una ruta a traves de Nicaragua la realizo el Coronel O.
M. Childs, entre 1850 y 1852, a solicitud de la Compania del Transito."
1850年から1852年までの間に、トランジット会社(la Compania del Transito)の要請によりChilds大佐(Colonel O. M. Childs)
がニカラグア内を通過する運河ルートを特定するための最初の完全な調査を実施した。
"? En 1872, el gobierno de los Estados Unidos de America organizo, bajo la direccion del comandante Lull,
un grupo de estudio para examinar la ruta sugerida por el Coronel Childs."
1872年に、アメリカ合衆国政府は、Childs大佐によって推奨されたルートを検証するため、Lull司令官の指揮下に調査
グループを組織した。
"? En 1885, siempre por orientaciones del Gobierno de Estados Unidos de America, el senor A. G. Menocal
hizo una reevaluacion parcial de la ruta recomendada por el Senor Childs."
1885年に、A・G・メノカル(Menocal)は、常にアメリカ合衆国政府の指導下で、Childs大佐が推奨したルートについて部分的な
再評価を行った。
"? En 1890, la Compania del Transito profundizo los resultados de los estudios anteriores dando como resultado
su Proyecto de Canal."
1890年に、トランジット会社(la Compania del Transito)は過去の諸調査の結果を掘り下げた。その結果としてニカラグア
運河計画をもたらすことになった。
"? Entre 1889 y 1901, la Comision del Canal Istmico encabezada por el Almirante retirado de la Marina de los
Estados Unidos de America, John G. Walker, recibio el encargo de dicho Gobierno de llevar a cabo una
investigacion de las rutas por Nicaragua y Panama para determinar cual era la mas practica y factible.
Igualmente, se le solicito estimar el costo y determinar que tratados se requeririan. Esta comision jugo un
papel muy importante en la seleccion de la ruta por Panama."
1889年から1901年にかけて、アメリカ合衆国海兵隊の退役提督のジョン・G・ウォーカー(John G. Walker)を委員長とする
地峡運河委員会(la Comisio'n del Canal Istmico )はアメリカ政府から調査の任務を引き受けた。その調査とは、
ニカラグア。ルートとパナマ・ルートのいずれがより実際的であり、実現可能性があるかを明確化するためのものであった。
それと同時に、建設コストを見積もって経済性の比較を行い、いかなる条約が必要とされるかを確定することが要請
された。この委員会は、パナマ・ルートを選択する上で大変重要な役割を果たすことになった。
"5. No obstante la decision del Gobierno de los Estados Unidos de America de construir la ansiada ruta
interoceanica por Panama, en 1914 firmo con el Gobierno de Nicaragua el Tratado Chamorro-Bryan que le otorgaba
a perpetuidad la opcion de construir un canal por Nicaragua y, una vez construido este, una concesion de
explotacion por 100 anos. El tratado fue ratificado en 1916 y abrogado en Julio de 1970."
1914年には、アメリカ合衆国はそれまで渇望されていたパナマ内に両大洋間運河を建設することを決定していたにも関わらず、
ニカラグア政府との間で「チャモロ-ブルヤン条約」(el Tratado Chamorro-Bryan)に調印した。
この条約は、ニカラグア内に運河を建設する権利を米国に永久に付与するものであり、運河建設のあかつきには100年間の
事業経営権(concesio'n)を米国に譲渡するものだった。その条約は1916年に批准され、1970年7月に破棄された。
"6. En 1929, el Congreso de los Estados Unidos autorizo un nuevo estudio de la ruta del canal por Nicaragua,
a cargo del Teniente Coronel Daniel I. Sultan, del Cuerpo de Ingenieros del Ejercito de los Estados Unidos
de America, con el objetivo de comprobar la viabilidad y el costo probable de construir y mantener un canal
por Nicaragua. El estudio finalizo en 1931, concluyendo que era factible construir un canal de esclusas por
Nicaragua y que no presentaba ningun problema de diseno."
1929年に、アメリカ合衆国議会はニカラグア運河ルートについての新しい調査を承認した。その責任者となったのは
アメリカ合衆国軍工兵隊(el Cuerpo de Ingenieros del Ejercito)のダニエル・I・スルタン中佐(Teniente Coronel
Daniel I. Sultan)であり、その調査目的はニカラグア運河の実現可能性について、またその建設や維持管理にかかる
ありうる経費を確認することであった。
1931年に、この調査が終わったが、ニカラグアでの閘門式運河建設(construir un canal de esclusas)は実現可能であり、
設計についても何の問題もないと結論付けられた。
"7. Entre 1939-1940, el Cuerpo de Ingenieros del Ejercito de los Estados Unidos de America llevo a cabo un
estudio para construir un canal de 6 y 12 pies para barcazas, pero no se tomo ninguna iniciativa. En 1947,
el Gobernador del canal de Panama llevo a cabo otra evaluacion para determinar lo que se deberia hacer para
cuando el canal de Panama se volviera incapaz para manejar el incremento del trafico, hecho que se estimaba
ocurriria entre 1960 y 1975. Al inicio de la decada de los anos 70, el canal de Panama alcanzo su nivel de
saturacion en cuanto a numero de transitos anuales. Ver Figura adjunta."
1939年から1940年にかけて、アメリカ合衆国軍工兵隊は、艀(はしけ)のための6から12フィート(約1.8−3.6m)の
運河建設のための調査を実行したが、何の着手もされなかった。1947年には、パナマ運河の総裁は、1960年から1975年の
間に起こるだろうと見込まれる通航量の増加によるパナマ運河の容量不足に備えて今後なすべきことを明確にするための
評価を行った。そして、1970年代の初めにはパナマ運河の年間通航量に対して飽和状態に達した。
"8. En las ultimas tres decadas, el transporte maritimo mundial ha experimentado un crecimiento sustancial,
producto del crecimiento de la poblacion y de la produccion, asi como de la globalizacion, mercados y comercio,
lo que ha creado la necesidad de medios de transporte maritimo eficientes y economicos, asi como la
construccion de barcos de mayor capacidad y dimensiones que los buques Panamax. Esta nueva generacion de
buques, que demandan un canal de mayores dimensiones, se conoce como Post Panamax y van en su mayoria de
100,000 dwt a 250,000 dwt. Buques por encima de ese tamano, tienen ciertos problemas de navegacion,
maniobrabilidad y de puertos compatibles."
近年過去30年間では、人口や生産量の増加にともない、また市場や取引のグローバル化するにともない、世界の海上
輸送量は実質的な増加を示している。このため積載量やサイズがパナマックス船(los buques Panamax)よりも大きな
船舶の建造のような、より効率的で経済的な海上輸送手段の必要性が高まっている。この船舶の新世代はポストパナマックス
として知られ、それらの船舶はより大規模な運河を求めており、その大部分は100,000トンから250,000トン級である。
この大きさ以上の船ともなれば、航海上の問題みならず、操船能力(maniobrabilidad)や港湾対応能力上の大きな問題
を抱えてしまうことになる。
"9. El desarrollo industrial y comercial del mundo no solamente ha ejercido presion sobre la industria de
construccion de barcos, sino tambien sobre los puertos, que han tenido que mejorar sus facilidades de carga
y descarga, de almacenamiento y profundizacion de los canales de acceso, entre otros. La necesidad de las
empresas de transporte maritimo de reducir sus costos en la travesias de sus buques, para ser competitivas
en el mercado del trasporte de carga maritima, demanda una via interoceanica que sea confiable, eficiente
y que reduzca el tiempo de transito con el fin de aumentar la capacidad de carga/tiempo de sus buques."
世界の工業および商業的発展によって造船工業はその発展への圧力をかけられてきたが、港湾機能の向上にも圧力が
かけられてきた。例えば、貨物の荷揚げ・荷降ろし、倉庫入れ・保管(almacenamiento)のための施設などの改善や
アクセス水路の大水深化(profundizacion de los canales de acceso)などが求められて来た。海上輸送会社は、
海上貨物輸送市場での競争力を向上させるために、船の長期航海における(en la travesias de sus buques)経費を削減する
必要性がある。これすなわち、信頼性のある効率的な両大洋間通航路を必要としている所以である。
また、彼らの船の積載量や時間面での向上を目的とした、航海時間の短縮化につながる両大洋間通航路を必要
としている所以である。
"10. Con el fin de realizar un estudio preliminar para determinar la viabilidad de construir y operar un
canal interoceanico acuatico por Nicaragua, el Gobierno de la Republica creo la Comision de Trabajo para el
Gran Canal Interoceanico en 1999, la cual fue renovada y reestructurada por el actual Gobierno en 2002 y 2006.
Este Perfil del Proyecto es el resumen del trabajo de la Comision, concluyendo en principio que existe base
suficiente para proseguir con las subsecuentes etapas del Proyecto."
1999年に、ニカラグアにおける両大洋間にまたがる水の運河の建設とオペレーションの実現可能性について明らかにするために
一つの事前調査を行うことを目的として、ニカラグア共和国政府は「両大洋間大運河のための作業委員会」(la Comision
de Trabajo para el Gran Canal Interoceanico)を設立した。
2002年および2006年に、当時の政府によって、同委員会は刷新され、再組織化された。この運河計画概要書は
同委員会による作業結果を要約的に取りまとめている。運河計画をすぐ次のステージへと
引き続き押し進めるに足る十分なベースが構築されている、というのが概要書での大筋の結論である。
2004年に、このレポート報告が作成された。